〜社会改革者としての顔、そして、作家としての新たな領域へ〜
1890年4月に突然サハリンに向け出発。7月から10月までサハリン、ウラジオストクに滞在。
当時、流刑地であったサハリンで、囚人たちの過酷な生活や環境を観察・記録し、後に、旅行記『サハリン島』として出版。
このサハリン行きをチェーホフの転機をみなす研究者も少なくない。
サハリン、ウラジオストクから海路、香港・シンガポール・コロンボ・スエズ運河を経てオデッサから自宅へと戻ったチェーホフは、サハリンの小学校に図書、参考書を送る活動を推進。また、飢餓農民救済のための活動にも尽力した。
1892年にモスクワ郊外メリホヴォに転居。ここで多くの作品を執筆することになるのだが、このメリホヴォ時代には、医師として無料診療を行い、近隣の村落にコレラ患者の隔離施設を建築。学校や図書館をつくり、国勢調査にも積極的に協力するなど、活発な社会活動家としての姿も人々の印象に刻んでいる。これらの社会改革者としての姿勢が、 "あるがままの人間の営み"を描くことに演劇の改革を見出したチェーホフの作品群にも影響していると思われる。
〜四大戯曲= 「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」〜
1895年、後にいわゆるチェーホフ四大戯曲と言われることとなる、その第1弾「かもめ」が執筆されたが、同年の初演はみじめな大失敗に終わった。この結果、「もう二度と戯曲は書かない」と決意したチェーホフだったが、1898年12月スタニスフラスキーとダンチェンコの共同演出で、モスクワ芸術座こけら落し公演として上演され、画期的な大成功を収め、チェーホフの文壇での地位も揺るぎないものとなった。
その後、1897年に戯曲『ワーニャ伯父さん』(1899年初演)、1899年に転居したヤルタで短編小説の傑作『犬を連れた奥さん』を執筆。1900年に『三人姉妹』(1901年初演)を執筆。「三人姉妹」でマーシャを演じたオリガ・クニッペルと1901年に結婚。1903年秋に『桜の園』を執筆。翌年1月にモスクワ芸術座で初演された。しかし、その半年後の1904年7月、結核のため、療養先のドイツ・バーデンワイラーで息を引き取った。