〜誕生から作家への道〜
黒海につながる南ロシアの港町タガンログに住む雑貨屋の三男として誕生。子供の頃より文才があり、学生時代から地元の文芸誌にユーモア小説を発表。16歳のときに実家が破産し、一家は逃げるようにモスクワに移住するも、アントンのみ故郷タガンログの人手に渡った家に家庭教師として住み込み、勉学のかたわら執筆を続けていた。 19歳でモスクワに移り、モスクワ大学医学部に入学。家計を支えるために次々と短編や雑文を寄稿。
1884年に医学部を卒業後、実際に医師としての勤務を続けながら、作家活動も継続。その作品数は7年間で400編以上にも及び、作家としての名声も高まった。トルストイ、ドストエフスキーやツルゲーネフらの大御所らが一線を退こうとしていたロシア文壇にあって、若手のチェーホフは次代を担う作家と目される存在となる。
1887年には初の本格的長編戯曲『イワーノフ』を執筆・初演。1888年には長編小説『荒野』を発表。
チェーホフの文学生活の新たな章が始まりを告げることとなった。

〜社会改革者としての顔、そして、作家としての新たな領域へ〜
1890年4月に突然サハリンに向け出発。7月から10月までサハリン、ウラジオストクに滞在。
当時、流刑地であったサハリンで、囚人たちの過酷な生活や環境を観察・記録し、後に、旅行記『サハリン島』として出版。
このサハリン行きをチェーホフの転機をみなす研究者も少なくない。 サハリン、ウラジオストクから海路、香港・シンガポール・コロンボ・スエズ運河を経てオデッサから自宅へと戻ったチェーホフは、サハリンの小学校に図書、参考書を送る活動を推進。また、飢餓農民救済のための活動にも尽力した。
1892年にモスクワ郊外メリホヴォに転居。ここで多くの作品を執筆することになるのだが、このメリホヴォ時代には、医師として無料診療を行い、近隣の村落にコレラ患者の隔離施設を建築。学校や図書館をつくり、国勢調査にも積極的に協力するなど、活発な社会活動家としての姿も人々の印象に刻んでいる。これらの社会改革者としての姿勢が、 "あるがままの人間の営み"を描くことに演劇の改革を見出したチェーホフの作品群にも影響していると思われる。

〜四大戯曲= 「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」〜
1895年、後にいわゆるチェーホフ四大戯曲と言われることとなる、その第1弾「かもめ」が執筆されたが、同年の初演はみじめな大失敗に終わった。この結果、「もう二度と戯曲は書かない」と決意したチェーホフだったが、1898年12月スタニスフラスキーとダンチェンコの共同演出で、モスクワ芸術座こけら落し公演として上演され、画期的な大成功を収め、チェーホフの文壇での地位も揺るぎないものとなった。
その後、1897年に戯曲『ワーニャ伯父さん』(1899年初演)、1899年に転居したヤルタで短編小説の傑作『犬を連れた奥さん』を執筆。1900年に『三人姉妹』(1901年初演)を執筆。「三人姉妹」でマーシャを演じたオリガ・クニッペルと1901年に結婚。1903年秋に『桜の園』を執筆。翌年1月にモスクワ芸術座で初演された。しかし、その半年後の1904年7月、結核のため、療養先のドイツ・バーデンワイラーで息を引き取った。